月蝕．．．ふたりの愛

紅く暗く朧に映える

遡月の下で交わした約束

静まる想いを瞳に託し

昂ぶる心を口唇に残して

ふたりの想いは

今、ふたたび時代を超える

静かな夜だね？

ああ、静かだな．．．

やっと、奈落を倒す事が出来たんだね？

ああ、出来たんだよな．．．

私、とっても幸せだよ

愛とふたり、とっても幸せだよ．．．

春まだ遠い楓の村にも、雪解けと共に少しずつ淡い緑が広がり始めていた

あの奈落が消滅をしたという事が、まだ誰の心にも実感が無いようで、そ

れでいてすれ違う村人の表情はみな穏やかだった

「ねえ、犬夜叉、私ちょっと楓さまの処へ行かなくちゃいけないのよ」

「ちょっとだけ、愛を抱っこしていてくれないかな？」

「珊瑚ちゃんも来月には赤ちゃんが生まれるから、色々と準備しなくちゃ

ならないのよ」

「ああ、わかった」

「しかし、弥勒の奴もやる事が素早いぜ！」

「右手の風穴が塞がった途端に、珊瑚と祝言を挙げやがったんだからな」

「その上、あっという間に子供まで作っちまって．．．」

かごめから赤ん坊を受け取った犬夜叉は、自分の鋭い爪に気を付けながら、

その小さなほっぺをぷにぷにと触っては、ため息混じりでそう呟いた

「もう、変な事言わないの！」

「でも．．．」

「珊瑚ちゃんの衣装、とっても綺麗だったな」

「ばか、おまえの方がずっと、その、き、綺麗だったぜ．．．」

「ふふっ、ありがとう犬夜叉」

「じゃっ、ちょっと行って来るね！」

「気を付けて行けよ？」

んっ？

向こうから駆けて来るのは．．．

かごめじゃねえか！

あいつ、赤ん坊が腹の中にいるってのに危ねえなあ！

あれっ？

かごめ、俺に気が付かねえのかよ？

たった今、自分の脇をすり抜けて行った少女を目で追いながら犬夜叉は、

遠くにいる紅い衣を纏い小さな赤ん坊をあやしている者に、激しい違和感

を覚えた

あれは．．．？

俺だ、俺がいる！

俺が抱いているのは、もしかして俺の子供なのか？

「愛」って呼んでたけど．．．

俺の子供の名前なのか？

ちょっと待て．．．

何で、俺たちに子供がいるんだよ？

俺たちの子供は、まだかごめの腹の中にいる筈だぞ．．．

うんっ？

あいつは．．．

弥勒じゃねえか！

ふたりに親しげに近づいて来た者を見て、犬夜叉は更に違和感を感じた

あれっ？

弥勒の右手．．．

何も封印してねえぞ？

弥勒の奴．．．風穴が塞がっているじゃねえか！

待てよ？

そ、それじゃ、奈落はどうなったんだ？

消滅しちまったのか？

四魂の玉は？

琥珀は？

桔梗は？

井戸は．．．どうなんだ？

骨喰いの井戸は一体、どうなってるんだよ？

もしかして、塞がっちまってるのか？

犬夜叉は急に不安になって、井戸に向かって走り出した

そして走りながら、更に今まで感じた事の無い違和感を覚えていた

何だよここは．．．

この世の中ってのは、本当はこんなにも静かなものなのか？

邪気の欠片も感じられねえ．．．

まさか、本当に奈落が消滅をしたっていうのか？

赤ん坊を抱いていたのは、確かに俺だった．．．

それじゃ．．．

この俺は、一体誰なんだよ？

俺は一体、いつの時代に紛れ込んじまったんだ？

井戸の縁に手をかけて、犬夜叉は恐る恐る暗い井戸の中を覗き込んでみた

なんだ、井戸の底にも俺がいるぜ？

赤ん坊を抱えて、嬉しそうに笑ってるじゃねえか．．．

たしか、さっきかごめが「愛」って呼んでたっけ？

あいつにそっくりだな！

あれが俺の子供なのか．．．

へへっ、可愛いじゃねえか♪

うんっ？

微かに瘴気が．．．？

うわっ！

井戸から顔を上げた犬夜叉は、目の前に広がるあまりにも変わり果てたそ

の光景に、思わず息をするのも忘れてしまった．．．

な、何だよ？

今度は真っ暗だ！

邪気の塊と瘴気の渦に、空がうごめいてやがる！

くっ、身体が動かねえ！

一体、どうなっちまったんだよ？

どっちが、俺の本当の世界なんだ？

かごめ、何処だ？

何処にいるんだよ？

かごめー！

暗い世界を、ただひたすらに走る犬夜叉の背後から、黒く巨大な塊が襲い

掛かって来た

微かに見える光に向って必死に走ろうとしても、思うように足が前に進ん

でゆかない歯痒さに、犬夜叉は声を荒げた

「来るなー！」

「こっちへ来るんじゃねえ！」

背後から襲い掛かって来る、黒く巨大な塊に全身を飲み込まれそうになる

寸前、かごめの声で目が覚めた

がばっ！

はあはあっ．．．

「ど、どうしたのよ？」

「汗びっしょりじゃない！」

「ゆっ、夢か．．．」

「まいった、最悪の寝起きだぜ？」

「んっ？」

かごめのベッドに腰を掛けて、辺りをきょろきょろと見回す犬夜叉が、か

ごめに大きな声で尋ねた

「な、なあ、かごめ、愛は何処にいるんだよ？」

「えっ、愛って？」

「あれっ？」

「此処って、かごめの部屋か？」

「あれは、夢だったのか．．．？」

「なんだ、そっか夢か．．．」

「ね、ねえ、愛って何なの？」

「い、いや、何でもねえよ．．．」

「痛ててっ！」

「なんだ、頭がガンガンするぞ？」

「昨日、おじいちゃんに日本酒を思いっきり飲まされたじゃないのさ！」

「これを、二日酔いっていうのよ」

「だから、夢ってやつを見ちまったのか」

「夢って？」

「珍しいわね、犬夜叉が夢を見るなんて」

「ねえ、どんな夢だったの？」

「どんなって、俺がいて、おまえがいて、弥勒がいて、みんながいて．．．」

「それじゃ、普段と変わらないじゃない？」

「私、キッチンで朝御飯の支度をしているから、少ししたら降りて来て

ね？」

そう言うと、かごめはくるりと身体をひるがえし、一気に階段を駆け下り

て行った

「お、おい、かごめ、走るんじゃねえ！」

「あっ、いけない！」

「まったく、あんなんで大丈夫なのかよ？」

かごめの匂いに包まれた布団にうつ伏せになりながら、犬夜叉はさっきの

夢を思い出していた

「なんだか、やけにはっきりした夢だったよな．．．」

うん？

「何だ、雲がおかしいぜ？」

かごめの部屋の窓を勢いよく開け放して空を見上げてみると、この神社を

覆い隠すかのように、低く暗い雲が渦を巻いて垂れ込めていた

くんっ？

「血の匂いだ！」

それに、なんで俺の時代の匂いも一緒に流れて来てるんだ？

鉄砕牙を握り締めた犬夜叉は、階下で朝食の支度をしているかごめに向っ

て大声で叫んだ

「かごめ、外の様子がおかしいんだ！」

「きゃっ！」

ふたりの目の前に飛び込んで来た信じられない光景に、暫くのあいだ声を

出す事が出来なかった

「な、なんだよ、これ．．．？」

御神木が．．．

枯れかけている？

御神木の幹から、微かに血の匂いが混じっているのに、かごめも気が付い

た

「ね、ねえ、犬夜叉、これって．．．」

「あいつらの血の匂いだ．．．」

「まさか、珊瑚ちゃんや弥勒さまの？」

「それだけじゃねえ、たくさんの人間の血の匂いと、空が焼けた匂いも混

じり合ってる．．．」

「向こうで、何があったの．．．？」

「奈落の仕業だな．．．」

「そんな．．．」

「ねえ、みんなは大丈夫なの？」

「わからねえけど．．．」

「かなり、やばい状況に変わりはなさそうだぜ．．．」

空を渦巻く暗い雲を見つめて、ふたりは言いようの無い不安に襲われてい

た

「あなたたち、一体どうしたの？」

「ママ！御神木が．．．」

「きっと、向こうで．．．みんなが．．．グスッ．．．」

犬夜叉の衣の袖口を握り締めながら、かごめは涙声で不安な思いに必死に

耐えていた

震えるかごめの肩にそっと両手を添えた母は、かごめを励ますように穏や

かに話し始めた

「かごめ、しっかりしなさい」

「きっと大丈夫よ」

「その人達は、あなた達とずっと一緒に戦ってきた、とても強い人達なん

でしょ？」

「あなた達が帰って来るまで、きっと何とかしている筈じゃないのかし

ら？」

「ああっ、あいつ等はしぶといからな！」

「かごめ、とにかく向こうの時代へ行こうぜ！」

「あなた達、ちょっと待っていてね？」

母が急いで家に入ると、再び何かを手に持って戻ってきた

「はい、これ．．．」

「ママ、これは？」

「御守りよ」

「この神社に、先祖代々伝わる御守りなのよ」

「かごめ、犬夜叉くんに架けてあげて」

「すまねえ、お袋さん」

「犬夜叉くん、かごめとお腹の赤ちゃんを護ってあげてね？」

「かごめも、あんまり無理しちゃだめよ？」

「うん、ありがと．．．ママ」

「かごめ、行くか？」

「うんっ！」

骨喰いの井戸に手を掛けて、そっと外の様子を覗いた犬夜叉は、そのあま

りの惨状に思わず、一緒に外の景色を見ようとしたかごめの頭を押さえ付

けてしまった

「ねえ、犬夜叉、どうしたの？」

「．．．」

「かごめ、おまえはこのまま、帰った方がいいかも知れねえ．．．」

「冗談じゃないわよ！」

「珊瑚ちゃんや弥勒さまや七宝ちゃんが心配で堪らないから、こっちにや

って来たんじゃないのさ？」

「一体、外はどうな．．．って．．いる．の．．？」

「見ない方が、良かった．．だろ．．．」

井戸の縁を掴む犬夜叉の両手が微かに震えているのが、視線を落としたか

ごめの瞳にぼんやりと映っていた

「今朝の、夢のとおりになっちまった．．．」

「夢って？」

「奈落の奴がこの世を支配しちまって、酷い邪気と瘴気の渦に飲み込まれ

ちまう夢だ」

「この状況も、そんなに変わらねえな．．．」

いつもなら眩しいくらいに緑が映える、見渡す限りの草原は瘴気で焼かれ

、やかましい程に聞こえて来る鳥の鳴き声も、今は何処からも聞こえては

こなかった

それどころか、一切の生き物の気配すら感じられなかった

「い、犬夜叉、あれ見て．．．？」

犬夜叉の瞳に飛び込んで来たのは、かつて五十年の間己を封印していた時

代樹の変わり果てた姿だった

「雷にでも撃たれたみてえに、真っ二つになっちまってる．．．」

うん？

真ん中が光ってる？

犬夜叉が裂けた幹の中を覗いてみると、不思議な光景が目に飛び込んで来

た

この光って．．．

「かごめ、幹の裂け目を見てみろ！」

「微かだけど、かごめの時代に繋がってるぞ？」

「本当だ、酷く歪んでいるけど、確かに私の神社だわ？」

「あっ、消えた．．．」

「だから、こっちの匂いが伝わって来たのか．．．」

「ね、ねえ、もし、この木が枯れちゃったら、井戸はどうなっちゃうの？」

「わからねえ．．．」

「楓のババアが生きていれば、何か知っているかも知れねえけど．．．」

「かごめ、楓の村に急ぐぞ！」

「あいつ等も心配だ！」

村に近づけば近づくほど、焦げた木の匂いとまだ焼けきれずに燻っている

煙が幾筋も立ち昇っていた

道端には、砕けた妖怪の残骸があちらこちらに転がっていた

その、おびただしい数の残骸を見て犬夜叉とかごめは、それが凄まじい戦

いであったのだという事を実感した

「ひでえ有様だけど、他の村よりはまだマシだな．．．」

「あっ、ねえ、犬夜叉、楓さまよ！」

「ばばあっ、生きてたか！」

怪我をした村人を治療している楓の姿に、ふたりはほっと胸を撫で下ろし

た

「おおっ、犬夜叉にかごめ！」

「奈落に遭遇しないで済んだようじゃのう？」

「一体何なんだよ、この有様は？」

「真夜中に突然、奈落の集団がこの村を襲いに来たのじゃ！」

「ね、ねえ、弥勒さまや珊瑚ちゃんは無事なの？」

ござの上で寝ている怪我人を見廻しながら、かごめは楓に不安そうに尋ね

た

「大丈夫じゃ、ふたりとも怪我をしとるが、わしの小屋で寝ておるぞい」

「みぎゃー！」

「あっ、こら、雲母暴れるでない！」

「包帯が巻けないじゃろうが？」

小屋の前で、雲母の胴体を包帯でグルグル巻きにしていた七宝が、ふたり

の姿を見ると急いで駆け出して来た

「かごめ、犬夜叉、帰って来てくれたのか？」

「七宝ちゃん、怪我は大丈夫なの？」

「おらは平気じゃ、だが珊瑚と弥勒の怪我が酷いんじゃ．．．」

薄暗い小屋の中に犬夜叉とかごめが入ると、すぐにふたりに気が付いて奥

から嬉しそうな声が聞えてきた

「犬夜叉！」

「それに、かごめさまも！」

「もう、帰ってこられたのですか？」

「おまえら、大丈夫だったか？」

「珊瑚ちゃん大丈夫？」

「う、うん平気よ、ちょっと妖怪の数が多すぎたから、へばっちゃっただ

け．．．」

「痛たたっ！」

「珊瑚、無理をしてはいけません」

「もう少し、横になっていなさい」

「なあ弥勒、これだけの結界を破って奈落の奴がこの村を襲いに来るなん

て、ちょっと変じゃねえのか？」

「それに、これ見てみろよ？」

「村の四隅に刺した、かごめの強烈な破邪の矢まで、みんな折られちまっ

てたぜ？」

ふたりが井戸を通り抜ける前に、かごめが村の四隅に刺していった純白の

矢は、無残にも折られ朽ち果てていた

「そうなのです」

「あの結界を一瞬のうちに破る事など、奈落に出来る筈は無いのです

が．．．」

「私達も気付いた時にはもう、どうしようもありませんでした．．．」

「楓さまと私と、かごめさまの結界までもを一瞬のうちに全て破って、奈

落が琥珀を奪いに来たのです」

「犬夜叉、奈落の力は以前にも増して強大になっています」

「おそらく、次に琥珀を奪いに来たら、私たちの結界では防ぎきれないか

もしれません」

「次か．．．次に来るのは．．．」

「おそらく、この次の朔の夜でしょう」

「おまえの秘密が、奈落に知られてしまいましたからね」

「きっと、奈落はどんな手を使ってでも、四魂の玉を完成させようとする

筈です」

暗い小屋の隅で、小さな身体を震わせながらうずくまっている少年が、奈

落という言葉を聞く度にその震えが大きくなっているのを、弥勒は痛々し

そうに見ていた

少しよろめきながら布団を抜け出した珊瑚は、隅で震え脅えてる琥珀の身

体を強く抱き締めた

「ねえちゃん？」

「大丈夫だよ琥珀、あんたはねえちゃんが絶対に守ってあげるからね」

「うん．．．」

「うっ！」

「かごめちゃん、大丈夫？」

「ご、ごめんね、珊瑚ちゃん」

「外の、焼け焦げた匂いにやられちゃったみたい．．．」

小屋を飛び出して、うずくまるかごめに犬夜叉が辛そうに口を開いた

「かごめ、おまえ、やっぱり向こうの時代へ行っててくれ．．．」

「嫌よ、私も奈落と戦うわよ！」

「でも、おまえ．．．」

「そんな身体で、戦える訳はねえだろ？」

「頼むから、おとなしくあっちの時代に居てくれよ！」

犬夜叉の子供が、かごめのお腹にいる事がわかってからというもの、犬夜

叉はかごめの大胆過ぎる程の行動に、いつもハラハラさせられていた

「私達も、かごめさまが居てくれればとは思うのですが．．．」

「それよりも、かごめさまの身体と、お腹の赤ちゃんに何かあったらと思

うと心配で堪りません」

「それに、時代樹の幹が真っぷたつに裂けてしまっています」

「いつ、井戸が塞がってしまうのかも分からない状態なのです」

「なあ、楓、あの木が枯れたら、本当に井戸は塞がっちまうのか？」

小屋に戻って来た楓はそう訊ねられて、少し困ったような曖昧な表情を浮

かべた

「わからぬ、だが、どちらかが四魂の玉を完成させるか、奈落が消滅して

その必要が無くなれば、井戸は塞がってしまうのじゃろうが．．．」

「時代樹そのものが枯れてしまったとしたら、おそらく井戸自体が無くな

ってしまうかもしれん．．．」

「何でだよ？」

「あの井戸は、時代樹の木を組み合わせて作られておる」

「井戸が掘られてから何百年も経つと言うのに、井戸に組まれている木は

まったく枯れておらんじゃろう？」

「た、確かに．．．」

「おそらく、土の下を通って、時代樹の根が井戸と繋がっておるのじゃろ

う」

「もしも、本体である時代樹が枯れてしまったとしたら、根で繋がってい

る井戸も枯れてしまう可能性が高い」

「さっきも、少しの間だったけど、かごめの時代と繋がっちまったからな」

「下手すりゃ、時代が裂けちまう．．．」

あけがたは、まだ冷えるんだな．．．

井戸の縁に腰掛けて、痩せ細って殆ど見えなくなってしまった月を見上げ

ながら、犬夜叉は今までの自分を静かに振り返っていた

幼い頃の辛かった思い出

五十年の長きにわたる封印

かごめによって引き抜かれた矢の感触

そして、愛しいかごめとの初めての夜のことが、ひとつひとつ鮮明に思い

出されていた

そして、微かに震える己の身体と心に、どうしようもなく戸惑っていた

怖い．．．

何で、こんなに怖いんだよ．．．？

死ぬってことが、こんなに怖い事だなんて、今まで全然思わなかった．．．

まだ、死ねないんだ．．．

俺は、まだ死にたくない！

かごめと俺の赤ん坊をこの手に抱くまでは、どんな事があっても死ぬ訳に

はいかねえ！

「犬夜叉、眠れないの？」

いつのまにか、犬夜叉の横に座ったかごめが心配そうに尋ねた

「すまねえ、起こしちまったか？」

「ううん、私も眠れなくて」

「ほら、これを腹に掛けてろよ」

「あけがたは、結構冷え込むからな」

「ありがと、犬夜叉」

衣をかごめに手渡すと犬夜叉は、再び月を見上げながら、かごめに心配そ

うに尋ねた

「なあ、かごめ、身体は大丈夫なのか？」

「平気よ、何だか逆にお腹の赤ちゃんに、凄い力を貰っているみたいよ？」

「へへっ、そうだよな！」

「何たって、あの奈落がびびって逃げ出しちまったくらいだもんな！」

「．．．」

「どうした、かごめ？」

「ねえ、犬夜叉、今夜は．．．朔なんだよね？」

「そうだな．．．」

「奈落は、やって来るのかな？」

「きっと来るだろうな．．．」

「俺の秘密が、あの月蝕でばれちまったからな」

少し考え込んでいたかごめが、犬夜叉の正面に向き直ると犬夜叉の首に両

手を伸ばした

「犬夜叉、ちょっと屈んでみて？」

「何でだよ？」

「いいから」

「こ、こうか？」

「一体、何をするんだよ？」

「念珠を．．外してあげる．．．」

「外すって．．．」

「どうしてだよ？」

「犬夜叉には、もう念珠は必要ないでしょう？」

「あなたは、私の旦那さまなんだもの」

「旦那って．．．」

「そっか、そうだよな」

「俺たち、祝言は挙げてねえけど、夫婦なんだよな？」

かごめの手でゆっくりと念珠が外されると、犬夜叉は首をグルグルと廻し

ながら困ったような顔をした

「どうしたの？」

「い、いや、何だか、変な気分だぜ？」

「どうも、首がスースーして心細いんだよ」

「うふふっ、ママから貰った御守りがあるじゃない？」

「私とママと、そしてお腹の赤ちゃんの想いのこもった御守りがさ」

「実はね、念珠を外したのは、楓さまに言われたからなの」

「楓のババアが？」

「どうして？」

「あの念珠は、犬夜叉の本当の妖力まで抑えているものだから、外してお

いた方がいいって」

「あの、くそババアッ！」

「どうりで、あの念珠を架けられてから、身体が重てえと思っていたんだ

よ！」

「後で、ぶん殴ってやる！」

「ふふふっ♪」

「何言っているのよ？」

「あんた、あの念珠が無かったら、きっとメチャクチャな事ばっかりやっ

ていたんじゃない？」

「今までそれで戦って来たんだから、念珠を外した今の犬夜叉はもっと強

くなっているんじゃないのかな？」

「そ、そうかな？」

「そうよ、犬夜叉はホントは、もっともっと強いのよ！」

「な、何だかそんな気がして来たぜ！」

「負けないでね犬夜叉？」

「私と、お腹の赤ちゃんのためにも．．．」

そっと、犬夜叉の手を握るかごめの姿が何故かとても儚く見えて、強くか

ごめの手を握り返した

そして．．．

「な、なあ？」

「ちょっとだけ、おまえを抱き締めてもいいかな？」

「．．．」

「うん、いいよ」

いつもなら、かごめの頬に当たる冷たい念珠の感触もなく、犬夜叉の体の

熱だけがかごめに伝わって来た

「暖かいんだね、犬夜叉の身体って．．．」

「すまなかった．．．」

「も、もう、いいぜ．．．」

「えっ、もういいの？」

「あ、ああっ、これ以上おまえを抱き締めていると．．．」

「その、ちょっと、やばくなっちまうからな．．．」

そっぽを向いて、頬を赤く染めてかごめから少し離れて座っている犬夜叉

の姿が、なんだか可愛くて堪らなかった

「ちょっとだけなら．．．いいよ？」

「いいって、何がだよ？」

「ふふっ、優しくしてね♪」

「あっ！」

「か、かごめ．．．」

東の空が乳白色に白んでくる頃、ふたりはこれが最後になるかも知れない

逢瀬を熱く密かに過ごした

村中に広がる緊張のなか、楓の小屋にはみんなが集まっていた

「かごめ、あんまり無理すんじゃねえぞ？」

「俺の傍に、ずっと居るんだぞ？」

「うん、犬夜叉もみんなも無理しないでね？」

「犬夜叉、次に朝日が昇るまでが勝負です！」

「そこを凌げれば、じゅうぶんに勝機はあります」

「かごめさまの破魔の矢の威力は、奈落もわかっている筈ですから、むや

みに仕掛けてはこれないでしょう」

「なあ、かごめ？」

「なあに、七宝ちゃん？」

「おまえ達、奈落を倒したら、どっちの時代で祝言を挙げるんじゃ？」

「七宝、おまえ気が早いなあ．．．」

「早くはないぞ！」

「かごめのお腹に犬夜叉のやや子がおるんじゃから、すぐに祝言を挙げね

ばならん！」

「じゃがのう．．．」

「普通は祝言を挙げてから、やや子が出来ると聞かされておったんじゃが、

おまえ達はどうして祝言を挙げる前にやや子が出来たんじゃ？」

「えっ？」

「げっ！」

「そ、それは、その．．．」

「な、何でか知らないけど、神様が間違えちゃったみたいで．．．」

「そ、そうなんだよ！」

「たしか、俺たちに謝りに来ていたよな？」

「なあ、かごめ？」

「え、ええ．．．」

ぷぷっ！

苦しい言い訳ですね．．．

「そうか、神様にもうっかり者がおるんじゃな？」

あれれっ、七宝おまえ、それで納得してしまうんですか？

もう少し、犬夜叉とかごめさまに突っ込みを入れても宜しいのですよ！

「おい、弥勒、何ニヤニヤしてんだよ？」

「へっ、な、何ですか？」

「拙僧は、別に何も．．．」

小屋の中での雰囲気は、これから己の背負っているもの全てを賭けて闘い

に臨む者達とは思えないほどに和んでいた

「犬夜叉の変化が始まりましたね．．．」

西の空にかろうじて踏み止まっていた弱々しい陽の光が、まるで灯りが消

えるかように大地に沈むと同時に、犬夜叉の銀色の髪もみるみる漆黒に染

まっていった

消えてゆく鋭い爪を見つめる漆黒の瞳が、一瞬不安そうな色に曇ったのを

かごめは心配そうに見つめていた

かごめの視線に気付いた犬夜叉は、少しはにかんだような笑顔を浮かべて、

みんなに明るく声を掛けた

「みんな、今までで一番長い夜になりそうだぜ！」

最猛勝の羽音が微かに近づいて来ると、空全体が重苦しい瘴気の渦にうめ

きだした

「来やがったか．．．」

「そのようですね？」

「よし、それじゃとっとと奈落の奴を倒しちまうか？」

「そうしましょう！」

「おまえ等、えらく簡単に言うではないか？」

楓が少し呆れて、みんなに笑いかけた

「ああっ、何だか今夜は負ける気がしねえんだよ」

「琥珀、おねえちゃん、ちょっと行って来るね？」

「七宝ちゃん、琥珀をお願いね？」

「まかしておけ！」

「でも、なるべく早く奈落を倒して帰って来てくれんか？」

「おら独りでは、心許なくてのう．．．」

無数の魑魅魍魎に覆い尽くされ、瘴気に歪んだ空の遥か上空に、あの忌ま

わしき奈落の姿があった

かごめが破魔の矢で己に狙いを定めている姿を、口唇を歪め忌々しげに睨

んでいた

「ふん、やはり、あの小娘も一緒か．．．厄介だな．．．」

「仕方ない．．．」

「桔梗」

「犬夜叉と、あの小娘を引き離してくれぬか？」

「承知した．．．」

巫女の装束を纏い、破魔の矢を握り締めた黒髪の女が、瘴気渦巻くどす黒

い雲の間からゆっくりと地面に降り立った

「あ、あれは、桔梗じゃねえかよ！」

「何で、桔梗が奈落と一緒にいるんだ？」

「まさか、奈落の側についたという事でしょうか？」

長い黒髪を靡かせ、ゆっくりと犬夜叉に振り向いた桔梗は、冷たい笑みを

微かに浮かべながら、破魔の矢を一本取り出すと静かに弓にあてがった

「久し振りだな、犬夜叉？」

「んっ、どうした．．．」

「何故に驚くのだ？」

「き、桔梗．．．？」

「お、おまえ．．どうして奈落と．．．？」

「ふん、知れたこと．．．」

「この世を、地獄に引きずりこむ事にしたのだ」

「この、私の朽ちた身体と共にな．．．」

「犬夜叉、おまえも私と共に地獄へ逝って貰うぞ？」

「桔梗．．．お、おまえ、まさか？」

「やめろ桔梗！」

冷たい笑みのまま、弓を絞る桔梗の姿が犬夜叉にはまだ信じられないのか、

犬夜叉は身じろぎひとつ出来ずに、その場に立ち尽くしていた

ビシュッ！

桔梗の放った矢は、寸分違わずに犬夜叉の心臓を狙って一直線に突き進ん

だ

「犬夜叉、危ない！」

「か、風穴！」

青白い閃光を放ちながら犬夜叉めがけて突き進む矢は、咄嗟に開いた弥勒

法師の風穴に軌道を曲げられ、犬夜叉の左脇をかすめて後ろの木に鋭く突

き刺さった

ゾクリッ！

「桔梗、おまえ．．．破魔の矢を．．．？」

「破魔の矢ですって？」

「法師さま？」

「桔梗は、本気で犬夜叉を殺すつもりでいるようです．．．」

「犬夜叉、逃げなさい！」

「人間に戻った今のおまえでは、桔梗の矢には歯が立ちません！」

「桔梗、どうして．．．こんな？」

「どうしてだと？」

「おまえは、この私と共に地獄に陥ちると言ったではないか？」

「だが、おまえはその娘との未来を選んだ．．．」

「おまえ達ふたりの赤子と、共に生きる道をな？」

「い、いや．．．！」

かごめに振り向いた桔梗のその凄まじいまでの表情に、かごめの足がすく

んで動けなくなった

二度目に放たれた矢は、再び弥勒の「風穴」によって、かろうじてその軌

道を変えられ、ザクリと地面に突き刺さった

「三度目は．．．無いぞ？」

桔梗が弓をギリギリと絞りながら、小さく何かを呟いている

ビシュッ！

一直線に犬夜叉の心臓を目掛けて矢は突き進み、一瞬のうちに犬夜叉の心

臓に突き刺さった

「犬夜叉！」

「ねえ、しっかりして？」

「桔梗．．．あなた、なんてことを．．．」

「やったか？」

「桔梗、よくやったぞ」

「次は、あの小娘を殺せ！」

「これで、わしを脅かすものは何も無いわ！」

「欠片を．．．」

奈落に背を向け、桔梗は無表情に冷たい声でぼそりと呟いた

「あの娘の霊力は、今の私では適わないのだ．．．」

「奈落、おまえの持っている四魂の欠片を少し借りるぞ？」

「良かろう．．．」

「あの小娘と、腹の中の赤子もろとも消し去ってしまえ！」

四魂の欠片を受け取る刹那、桔梗は奈落の身体に己が両腕を絡ませた

「なっ、何をする？」

「離せ！」

「奈落、悪いがおまえに付き合うのもここまでだ．．．」

「なんだと？」

「わしを裏切るのか？」

「ふふふっ．．．」

「裏切るだと？」

「裏切りは、おまえの常であろうに．．．」

「何故だ、おまえの魂は闇に染まっているではないか！」

「わしと同じ、暗黒の闇の中で、魂が蠢いているではないか？」

「そうだ、染まっているとも．．．」

「今も、私の魂は暗黒の闇の中にある．．．」

「奈落、おまえが居ようとも居まいとも、この世はそんなには変わらない

だろう．．．」

「一度滅びた私のこの身体は、どんな事があっても復活する事は出来ない

のだからな．．．」

「では、何故わしに逆らうのだ？」

「見て．．みたくなったのだ．．．」

「おまえが居なくなった後に、あの者達が創りあげてゆく未来というもの

を」

「私やおまえでは、決して適う事など出来ない、明るい未来というものを

な．．．」

奈落の動きを封じている桔梗が、かごめに叫んだ！

「かごめ！」

「その破魔の矢で、私と共に奈落を貫くのだ！」

「そ、そんな．．．」

「早くしろ！」

「この墓土の身体では、そんなには持たないぞ！」

「奈落、この私と一緒に堕ちるのなら、地獄の業火に焼かれても本望であ

ろう？」

「犬夜叉、もうよいぞ．．．目を覚ませ！」

「おう！」

「犬夜叉、おまえ心臓に矢が．．．？」

「これか？」

「これに矢尻なんか付いちゃいねえよ」

「これじゃ、刺さる訳ねえよな？」

白い羽の矢を見つめながら苦笑いをする犬夜叉に、みんなが安堵の表情に

戻った

「それじゃ？」

「ああっ、みんな芝居だ」

「あいつとの、最後の大芝居だぜ．．．」

犬夜叉．．．これが、おまえとの最後の別れだ．．．

私は、もう二度とおまえの前に、この姿を現す事は無いだろう

犬夜叉、そんな顔をするな．．．

これでも、私は幸せだったのだぞ？

おまえと出逢えて、幸せだったのだぞ．．．

「桔梗ねえさま？」

「やっと、穏やかなお顔に戻られたのですね．．．」

楓の目に映るのは、あの優しかった姉の面影だった

「桔梗．．．？」

奈落を縛り付けながら、振り向いて犬夜叉を見る桔梗の表情は、昔見たあ

の時と同じ表情だった

犬夜叉に、おまえらしくないと言われた時と同じ表情だった

「桔梗．．おまえ．．．」

「かごめ！」

「矢を放てー！」

青白い光が一直線に桔梗の白い装束を貫き、奈落の忌まわしい心臓を停止

させた

いぬやしゃ．．．さよならだ．．．

犬夜叉の目の前に、かごめによって射貫かれた桔梗の巫女装束が、ふわり

と落ちてきた

「やった！」

「破魔の矢が、奈落の心臓を貫いたぞ！」

「おの．．れ．．．」

「小娘、せめておまえだけでも、地獄に引きずり込んでくれるわ！」

「ま、まだ生きているだと？」

「なんで、消滅しねえんだよ？」

「か、風穴！」

「犬夜叉、早くかごめさまを井戸の向こうへ！」

奈落の心臓と共に桔梗をも貫いたかごめは、ショックのためかその場にへ

たり込んでしまっていた

「かごめ、早くこっちへ来い！」

「いやよ！」

「もしかしたら、もう犬夜叉と逢えなくなっちゃうかも知れないじゃな

い？」

「それに、私．．．桔梗を矢で貫いちゃった．．．」

「かごめ、桔梗は消滅しちゃいねえよ！」

「えっ？」

「おまえの矢が当たる瞬間に、魂をバラバラにして奈落から離れたみてえ

だ！」

「ただ、元に戻るには、相当時間がかかるかもしれねえけどな．．．」

暗い井戸の底からは、まだ微かに向こうの時代の風が吹いて来ていた

しかし、その風も弱く途切れがちで時々風が止んだ

「かごめ、元気でな？」

かごめをその胸に強く掻き抱くと、犬夜叉は今が戦いのさなかであるのを

忘れてしまいそうなくらいに、優しくかごめの耳元で囁いた

「いいか、向こうであんまり走り廻るんじゃねえぞ？」

「心配で堪らねえからよ」

「嫌よ、行きたくない！」

「私は、犬夜叉の傍に居たいのよ！」

「犬夜叉と離れ離れになるなんて、そんなの嫌．．んんっ．．．？」

犬夜叉の胸を両手で叩きながら訴えるかごめを、今は牙の無いその口唇で

強く塞いだ

「んっ、んふっ．．．はあっ．．．」

「かごめ、俺達はいつも一緒だぜ？」

「俺はきっと奈落を倒して、もう一度おまえを迎えにゆく」

「だから、寂しいだろうけど、少しの間耐えてくれ」

「いぬやしゃ？」

「さあ、早く行ってくれ！」

「お腹の子を、俺の子供を頼むぞ！」

「犬夜叉！」

「かごめ、お腹の子供の名前は、愛だ！」

「愛？」