「血色の花弁」
前編
吐く息が首筋に纏わり付く。 揺れる枝の隙間から斜めに降る月光が、影を柔らかく侵食していた。 傘を広げた形の大樹の袂(たもと)、月と同じ色に染まる二つの肌は縺れ合い、そっと絡まる。 どちらのものとも知れない喘ぎ声が止んでは零れ、静寂に谺していた。 ふと悩ましげな吐息と共に銀色の髪が舞い上がり、汗が飛び散った。 月明かりの中一瞬止まって、影はまた蠢き始める。 重なった肌は互いのそれから離れることなく時間は緩やかに過ぎていく。
「…このまま」 掠れた声でそう言いながら、銀髪の少年は少女の濡れた唇を己のそれでなぞる。 少女の伏せられた長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、水鏡のように揺れる瞳が少年の像を映した。
「…朝んなっても抱いていてえ…」
少年の熱い息が唇にかかり、少女は僅かに身じろぎをする。 更に酔わされそうになる意識を手繰り寄せながら少女は頼りない声で答えた。
「…無理…よ、 朝には戻らなくちゃ…、みんなが…変に思う…」
「今更だろ…、もう知られてる」
「…あっ、だめ…よ」
少女の内腿をくすぐるように動いていた少年の指先が再びその奥に進もうとするのをそっと制して少女は困ったような顔をした。
「だめ?何が」
悪戯気味に微笑する少年。その指は少女の手を払って、求める先へと辿り着く。
「…犬…夜叉」
「朝はまだ来ねえ」
少女の瞳に映る琥珀色の瞳。 潤んだように煌いて柔らかな銀色の髪と共に胸の谷間に沈んでいく。 まだ熱を帯びたままの下腹部に再び少年の熱いものが入り込んできて少女は忽(たちま)ちまた恍惚の世界へと引き込まれた。 少女の喘ぎ声と少年の乱れた息遣いが闇に響く。
「…かごめ」
激しいその行為に似つかわしくないような優しい囁きが耳元に届いて少女は瞑っていた目を開けた。
「…な…に?」
「やらなきゃならねえこと全部終わらせたら…俺と…暮らさねえか?」
「―――えっ」
驚いたような少女の言葉と表情に少年は少し不服そうな顔をした。
「…何だよその反応…」
「だってそれって…、ち、ちょっと一旦」
「このままでいいだろ」
「…っ、もうっ…、今の…本気?」
「冗談で言えるかよっ、 返事、聞かせろ」
触れそうに近い少年の瞳はまっすぐに少女を捕らえて、息を潜めて答えを待っていた。 真剣な表情に少女の胸が震えた。
「―――…いぬ…やしゃっ」
少女は少年の胸板から腕を引き抜いてそのまま背を覆うようにして少年に抱き付いた。
「――嬉しい、私もずっと傍に居たかった…あんたとずっと…」
少女の眼に涙が滲んで月明かりに反射する。 少年はほっとしたような笑みを浮かべて少女の唇を塞ぐと、少し浮いている少女の背に腕を廻して強く抱き締めた。
「お前に出逢えてよかった――かごめ」
「…犬夜叉」
月光に舞う吐息と汗に少女の涙が加わる。 結ばれた互いの視線は解(ほど)かれることはなく、身体はひとつに溶け合う。 飽く事なく求め合う二人の頭上に浮かぶ蒼い月―――白くなって消えるまで。 この夜に交わした約束を深く心に刻みつけながら互いを抱(いだ)き続けた。
翌日は快晴だった。 うららかな風に誘われるようにして楓の村から足を延ばし、犬夜叉とかごめは偶然見付けた小川のほとりに腰を落ち着かせた。 このところおかしなくらいに何事も起きず、旅を続ける一行は一日を持て余し気味だった。 奈落の手に渡る前に一つでも多くの四魂の欠片を集めなければと焦る気持ちはあれど、不意に訪れたこの仮初の平和な日々、久々に味わう穏やかな時間は誰しもが手放し難かった。
「喉渇いちゃった、水飲まない?」
ふぅと小さく息を吐いてかごめが言った。
「俺はいい。 行って来いよ」
「うん、じゃあちょっと待ってて」
かごめは透き通る小川を眩しそうに眺めて立ち上がった。 その姿を眼で追いながら犬夜叉は柔らかい草の褥にごろりと身を投げ出した。 その直後、額の辺りから突然大きな声――
「犬夜叉様! のんびりしてる場合じゃないですぞっ」
「うゎっ!―――その声…冥加じじいかっ!?」
咄嗟に声のした辺りを手でまさぐると妙な呻き声がして小さな物体が草の上に落ちた。
「い、犬夜叉様、何て乱暴な…」
「おめぇの登場の仕方が悪ぃんだろ。 何なんだよ、突然」
少年は身を起こして冥加に毒づくも、まだその小さな姿を確認できず苛々と視線を彷徨わせていた。
「ご忠告に参ったのですよっ、気付いておられなかった様子でしたから! それよりあいつは何処へ…」
「はぁ? 話が全然見えねぇ…――あ?」
―――ドサッ…
鼻先へ飛び乗ってきた冥加を片手で摘み上げたところで、少年の言葉が止まる。 冥加の背後で予期せぬことが起きていた。 川岸に立っていたかごめの後姿が急にふらふらと揺れたかと思うと、支えを失うかのようにぐにゃりと足が折れてそのまま前倒しに倒れ込んだのだ。
「かごめっ!?」
「まさかっ、あいつかごめを―――!しまった!!」
冥加の言葉はその時の少年の耳には届いていなかった。 倒れたかごめを目にした途端少年は冥加を放り投げて少女の元へ駆け寄っていたからだ。
「かごめ!!どうした?―――な、何だよこれ…―――」
倒れた少女を抱き起こそうとして少年は絶句した。 混乱した表情が見る見るうちに深刻そうに歪む。 少女は既に意識を失っていて、反応がない。
―――息、してねぇ…
そのことに気付いた少年は言葉を継げず、茫然として少女を見つめる。 蒼白な肌からは温もりさえも消えていた。
「……ま、待て。 こんなことあるはずがねぇ…、奈落の幻影か? だったら俺には効かねぇぜ… 騙されねぇぞ!!」
少年は大声で叫んで固く眼を閉じた。 幻術ならばこれで解ける―――もう一度眼を開ければ、かごめはさっきのように…楽しげに…
勢いよく眼を見開いた少年。 けれど腕の中の重みは変わらず脱力したまま動かない、視線を落とせばそこには息の無い少女が眠るように頭をもたげていた。
現実―――?
「どういうことだよ…、一体全体何がどうなってんだよっ!!!」
付きつけられた現実と突然過ぎる出来事に少年の思考は追い付いていない。
「かごめ!かごめ!!」
「犬夜叉様!落ち着いてくだされっ!」
少年達のところへ追い付いたらしい冥加がピョンピョンと跳ねながらかごめの身体の上で必死に少年を鎮めようと声を張り上げていた。
「どう落ち着けってんだ!かごめがっ―――かごめが息してねぇんだぞ!!」
「だ、だから!誰の仕業でこうなったか聞いてください! 助ける方法もきっとある!」
犬夜叉の剣幕に気圧されながらも冥加も負けじと言い放った。 少年ははっとしたように冥加に視線を向けて、僅かに表情を緩めた。
「―――助かる…のか?」
とても静かな声だった。
―――何て顔をなさるのか…
弱々しい眼差しと心底ほっとしたような表情に驚いて冥加は一瞬言葉に詰まった。 そもそも助ける方法もあるのかないのかはっきりと分かる訳でもなかったのだ。
「―――かごめは…何としてでも助けましょう」
それでもこの少女を助けたい気持ちは冥加も同じだった。 力強く言い切って少女を見つめると、犬夜叉もほっと息を吐いて少女をそっと抱き締めた。
「で、そのぐ…なんとかって奴の仕業なんだな?」
「狗血蠱(ぐげつこ)ですよ、犬夜叉様。 奴はずっとお二人の後ろをつけてましたから。 最猛勝ほど大きい虫なら妖気にも気付いたかもしれませんがあんなに小さければその存在を知るのも至難の業、お気付きにならないのも当然と言えば当然でしょう。 わたしはこんな身体ですから大きいものより小さいもののほうがよく目に付くのです」
「浮かれてて気付かなかった俺が悪りぃんだ、くそっ。…奈落の野郎か?それとも」
「…それは…何とも言えませんが、四魂の欠片を奪って行かなかったところを見ると単にかごめを獲物にしただけという気がしますな。 奴は血を養分にして生きてるのです、偶々美味しそうなかごめ、いえ、美味しそうな血の匂いを嗅ぎ取ったんでしょう。 厄介なのは奴の針には毒があるってことで…妖怪なら痺れを感じる程度の大したことない毒なんですが、人間には…」
「死んだ訳じゃねぇって言ったよな? もういい、どうすればかごめが元に戻るかさっさと言えよ! ……死んだんじゃねぇって解っても…不安なんだ」
犬夜叉は傍の木の根元に寝かせたかごめを一度見て、悔しそうに眼を逸らした。 冥加の話ではかごめは狗血蠱(ぐげつこ)という虫妖怪に血を吸われ、刺された針から毒が体内に入り仮死状態になってしまったということだった。
「藥仕麒(やくしき)という仙人が居て、噂に寄ればその者が作る薬液を飲むと体内のあらゆる毒素があっという間に消えるそうです。 猛毒に侵されて死にかけの妖怪でも忽ちのうちに治すと聞きました。 その薬液をかごめに…」
「何処に居るんだ?そいつ」
冥加の言葉を切るように言って少年は立ち上がった。
「北に霊山があって、その森の洞窟に満月の夜だけ現れるそうです」
「…へぇ、なんかめんど臭ぇ奴だな。 満月……、おい、満月って」
「はい、今夜が丁度その夜ってことに」
「…チッ、ぐずぐずしてる場合じゃねぇ! その霊山ってのはこっからどんぐれぇのとこにあるんだ?」
「……犬夜叉様が休まず走ったとしても三日か四日はかかるかと…」
言い難かったのか、冥加の声の調子が下がる。
「は?」
犬夜叉は怒気混じりの表情で冥加を睨んだ。
「―――あっ、そうだ、雲母が居るではないですか! 雲母なら夜までに行けるっ」
「……そうか、確かに…」
普段誰かを頼ることなど思いもつかない少年らしく、冥加に言われて初めて雲母に現地まで運んでもらうという手段に思い至った風だった。
「どっちにしろ急がねぇとな」
少年はそう言い残してかごめを抱き上げると疾風のごとく走り去った。
「あっ!!犬夜叉様!!!まだ肝心なことを―――」
冥加は大声で叫びながら犬夜叉の後を追いかけたが、到底追い付けるはずもなく小さくなる犬夜叉の姿を心配そうに見つめるしかなかった。
「藥仕麒(やくしき)は…人助けに必ず見返りを求める…その見返りは生半可なものではないと… 犬夜叉様…無事に帰ってきてくだされっ」
「じゃ、雲母頼むぜ」
「ミュー」
可愛らしい鳴き声で応えた次の瞬間、雲母はもう一つの姿に変化した。 子猫と見紛うほどのそれまでの可愛げな体は一転、獰猛そうな眼光と鋭い牙を持つ巨大な妖獣の姿になっていた。
「かごめのこと頼む」
「ああ、こっちは心配要らないよ」
「オラがずっと看てるからなっ」
珊瑚と七宝の声を背で聞きながら犬夜叉は雲母に飛び乗った。
―――かごめ、待ってろよ!俺が―――
高い空、真横から当たる太陽の光を掌で遮りながら少年はその光の元に顔を向けた。
「俺が絶対元に戻してやるからな」
その言葉に反応するかのように雲母が後ろ足を大きく蹴ってぐんと加速した。
飛び続けて早数刻、陽はすっかり落ちて向い風が冷えた夜の匂いに変わった。 陽の代わりに現れた月は眩いまでに白く、くっきりと丸い輪郭いっぱいに光を湛えていた。
「もう北だよな… 問題はその霊山ってのがどれなのか分かんねぇことだ…」
犬夜叉が夜空に眼を凝らしながら独り言のように言う。
「この辺の奴捕まえて山の場所聞きゃいいのか。 雲母!下に集落でも見付けたら…」
ぞくりと微かな悪寒が走って少年は言葉を止めた。 ほとんど同時に雲母が警戒するような低い唸り声を上げて不意に止まった。 二人の周りには山々の頂が黒くそびえていた。 そのうちの一つ、丁度正面に小さく見える山から微かに漂ってきた気配に少年も雲母も気付いたのだ。
「…妖気」
「あれが冥加の言ってた山か…?」
―――しかし奴は仙人だと―――仙人って妖怪じゃねぇよな
「分かんねぇけど、あそこに行けるか? 他にそれらしい山もねえし」
その直後件の山の頂から眼にも留まらぬ速さで閃光が向かってきてあっという間に少年達を捕らえた。
「―――っ、なっ!? なんだこの光っ!」
「ガウッ グルルッ」
二人をすっぽりと光が包んでその眩しさに眼に痛みが走る。 纏わり付くような光の中、身体を圧迫する何かの強い力で二人は動きを奪われた。
引き寄せられている――?
「うわっ!!!」
少年がそう気付いたときには雲母共々凄まじい力で妖気漂うその山へ引っ張られていた。
そして―――
「わしに用があるようじゃったから手間を省いてやったぞ」
足元に地面が触れ光が消えた瞬間、すぐ傍で静かな声がした。 充満する妖気。 声の主を目にする前に少年は足元に転がっている不気味な物体に気付いた。
「…妖怪?こいつ……」
死んだ妖怪だった。 死体など特に珍しい訳ではなかったが、そこに在ったものには少年も僅かに眉を顰めた。 見た目が異常だったせいだ。
上半身が奇妙な紫色に変色している。 そしてそこ一面は大小様々の無数の水ぶくれで覆われていて一部の破裂した部分からは気持ちの悪い色の液が流れ出していた。 顔の相好など判ったものではない。
「毒にやられたのじゃ、折角わしを頼って来たのにのう」
毒という言葉に少年はギクリとして声のしたほうに顔を向ける。
「―――お前が……藥仕麒…?」
月に照らされてぼんやりと発光する声の主の姿を見て、少年は驚きながら尋ねた。 そこに立っていたのは、上半身が人間―――それも相当の老人で痩せ細った姿―――で、下半身は四足の獣、どう見ても仙人には見えないような奇妙な生き物だった。
「いかにもその通りじゃ。 さて、毒に苦しんでおるのはそっちの猫妖怪か? …ん?何ともないようじゃが」
藥仕麒が視線を投げたところに、変化を解いた雲母が蹲(うずくま)っていた。
「雲母っ、おい、大丈夫か?」
「…ミュー」
返事が返ったことに少年はとりあえずほっとした。 特に怪我も無いようだ。
「違う、毒にやられたのは人間の女で、動けねえからここには連れて来てねえんだ。 お前はどんな毒にも効く薬持ってんだろ? それを貰いに来た」
「何じゃと? 人間? ほぉ、このわしに人間を助けよと言うのか?」
「人間だと都合が悪いってぇのか? お前…仙人らしくねえぞ」
「仙人? フッ、毒を治療すると聞いて慈悲深い仏ででもあるかのように勘違いする者が多過ぎる…。 仙人などではない。 ただで解毒などせん」
「……は、そうか。 どっちだって構いやしねえ、かごめを助けてくれんなら」
「かごめという名か、その女。 こんな所にまでやって来て命ごいするほど大事なのか? お主は妖怪じゃ、人間の寿命など天命まで全うしたとしてもわしらにしてみればほんの一瞬、取るに足りないものだと解っておるじゃろう?」
「俺にはそんなの関係ねえ! それよりその薬液ってのを渡すのか渡さねえのかはっきりしやがれ!」
「フッ、今宵最後の客は久々に面白い…。 渡してやってもよいぞ」
「…そっ、そうか、だったら早く…」
「見返りにお主の心臓を差し出すならばな」
にやりと笑った藥仕麒の顔を少年は呆けたように見つめて立ち尽くした。
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