「血色の花弁」




中編







「どうした? フ…、そこまではできんか? 所詮はそういうものじゃ、誰もお主を責めはせん。
そこに転がってる奴、そいつも仲間と称する者に見捨てられたくちじゃ。 フッ…フフ、実に当たり前過ぎてつまらんことよ」

「…一緒にすんな、……誰ができねえって言った?」

押し殺したような低い声。
犬夜叉は拳を握り締めて藥仕麒を睨み付けた。

あの状態のかごめをどうにかできる手立てはこれしか… 俺ができること…は―――

「あいつが助かるなら心臓くらいくれてやる。 約束してやるから、寄越せよ…」

「―――ハッ、ハハハハハッ、そうきたか。 期待通り楽しませてくれる奴じゃ。 受け取れ、それが薬液を固めたものじゃ。 人間じゃからな…水に溶いて一口飲ませる程度でよかろう。 たちまち毒は消える。 お主の大事な女も一瞬で苦しみから解放されるはずじゃ」

藥仕麒は心底この状況を楽しんでいるかのように笑ってから、ぶつぶつと経のような不思議な言葉を唱えた。
すると握り締めていた少年の拳が一瞬明るく光り、何事かと掌を広げると緑色をした小さな豆のようなものがいつの間にかそこに在った。
少年はその現象に眼を瞠(みは)った。

「これが―――? これで助かるんだな? …で、心臓が欲しいって言ったな、これを飲ませたらまた此処に来りゃいいのか? お前に…殺されに」

「殺されに、だと? 何か勘違いしてるようじゃがわしは心臓を差し出せと言った、お主自らその身体から心臓を取り出してわしに献上するのじゃ。 お主、妖怪と思ったが半妖じゃな。 半妖の心臓は珍しい素材じゃ、長年試行錯誤して未だ完成を見ないわしの不老不死の薬に混ぜてみたい。 思わぬ効果が出るやもしれぬ」

「な…んだと!?」

少年は驚きと怒りの入り混じった声で問い返した。

―――心臓を取り出して渡す? 不老不死の薬の素材だと? こいつ…調子に乗りやがって!

「何じゃ、すごい形相をしおって。 よいのじゃぞ、やめても」

嘲るような言い方だった。
少年はぐっと唇を噛む。

―――こんな野郎の言いなりになって情けねぇ死に方すんのか?

だが俺が拒めば――かごめもこいつみたいに…

少年は足元に転がっている妖怪の死骸に視線を投げる。
毒に冒されたそれはおぞましい物体にしか見えない。
間もなくしてブルと頭を振ってから抑揚のない調子で少年は言った。

「―――わかった、お前の望むようにしてやるさ。 約束は守る。 じゃあな」

「……ふん、悪いがわしは口約束は信用せんのじゃ、長く生きとるからのう。 見返りがわしの手に届くまでお主には見張りをつける、逃げようなどと浅はかなことは思わぬがその女の為じゃ。 覚えておけ」

「………お前は確かに仙人じゃねえな」

振り返ってそれだけ言うと少年は雲母を連れ歩き出した。
満月は形を変えて少し歪んでいるように見えた。

「…そうじゃ、仙人でなどあろうはずがない」

背後でかすかにそんな言葉が聞こえた気がしたが少年は気に留めることなく歩き続ける。

妖しい気の満ちる北の霊山の奥深く、人知れぬ場所で交わされた約束。
満月の夜は更け、禍々しい闇と腐臭が辺りに漂っていた。













静まり返った楓の小屋、かごめは襦袢姿で布団に寝かされていた。
目を閉じたままピクリとも動かないその姿は、例え仮死状態と言えど見る者には死を連想させた。

「…犬夜叉はまだかのう…」

かごめの枕元で七宝が心配そうに呟いたとき、小屋の御簾が跳ね上がって犬夜叉が入ってきた。
皆の目が一斉にそちらへ向く。

「かごめは…?」

その視線にも気付かない風にそう言うと、少年は少女を険しい顔で見つめた。

「戻ったのか、犬夜叉。 かごめ様は特に変わりは…」

「…そうか」

「まさか仙人に会えなかったのではあるまいな?」

どことなく覇気の感じられない少年の態度に弥勒は不安を感じた。

「いや、奴には会った。 これでかごめも元に戻る」

言いながら少年は握り締めていた拳を広げてみせた。
彼の手には奇妙な色をした丸薬のようなものが載っていた。

「なっ、なんじゃ、だったらもっと嬉しそうな顔をせんか! うまくいかなかったのかと思うじゃろ!」

「まぁまぁ、戻るのなら何でもいいさ。 それより犬夜叉、早くそれ飲ませてあげなよ」 

珊瑚に促され、犬夜叉は僅かに身を固くした。

これでかごめは元に戻る…そう…、けど俺は―――その姿を見ることも…

もう…見れねえんだ

「…犬夜叉?」

珊瑚の問いかけにも答えずふらりとかごめの床の側に膝を付いた犬夜叉を周りの者は不思議そうに眺めた。

「…なぁ、こいつのことは俺に任せてお前らどっか行っててくんねぇか?」

かごめを見つめたままぼそりと呟く少年の横顔は思い詰めた風だった。

「なっ?なんで出て行かねばならんのじゃっ。 オラ達だってかごめがしんぱ…―ンぐっ!?」

「では我々はしばらく外で時間を潰してくるとしますか」

弥勒に口を塞がれ抱き上げられた七宝は非難のこもった眼差しで弥勒を見上げながらじたばたと足をばたつかせた。
弥勒は犬夜叉と自分達を戸惑った様子で交互に見ている珊瑚に目配せをして付いて来るよう促した。
犬夜叉が静かに言う。

「戻ったら…こいつに伝えてくれ、国に帰れと。」

「……それはお前が直接言えばよいのではないか?」

「いいから頼んだぞ弥勒。 俺は行かなきゃならねえとこがあるんだ」

「……ま、とりあえずは承知した。 だが目覚めてお前が居なかったらかごめ様は不安だろうな」

真剣な表情でそれだけ言うと弥勒は珊瑚や七宝と小屋を出て行った。

「犬夜叉様…向こうで何が…」

「…あ?お前まだ居たのか」

ただならぬ雰囲気に物怖じした風の冥加が犬夜叉を見上げていた。

「…大した仙人様だったぜ。 おら、おめぇも邪魔だ、かごめのことは心配要らねえから出てけよ」




小屋には少女と少年だけが残った。
意識のない少女はもちろんのこと、側でその様子を眺めている少年もじっとしたまま動かない。
そこだけ時の流れが止まっているかのようだった。

「…かごめ、こんな目に遭わせちまって悪かった。 妖怪の存在に気付かねえとは、ほんと情けねえ…」

犬夜叉はかごめの肩に腕を廻して身体を少し持ち上げ、器に入れた薬液を口元に流し入れた。

「これで元に戻るらしいから、我慢してくれよな」

かごめの喉がごくりと鳴ったのを確認して犬夜叉は心底ほっとしたように脱力した。

昨夜まではこの少女と共に生きる未来に心躍らせていた。
交わした約束はこの手で現実のものにするはずだった。
―――掴みかけたものは一瞬にして奪われ、今手に残るのはもう一つの約束。

命を差し出すのに後悔はない。
ただ――
ただ、この少女にもう会えないという事実が信じ難く、思えば思うほど思考がまとまらない。
浮かんでくるのは叶えたかった願いや想いばかり。


もっと見ていたかった
傍に居て護りたかった

共に
生きて行きたかった―――


「…けど、俺の安っぽい命と引き換えででもお前が生きて行ってくれんなら、こんな終わり方も悪くはねえ」

犬夜叉は腰から鉄砕牙を外してかごめの布団にそっと置いた。

「…たまには思い出せよな、そんで誓ってくれ、この先も俺以外は…愛さねえって…」

「俺以外の誰も、ずっと俺だけの――」

そこまで言って我に返ったように口を噤んだ。

「……何言ってんだかな、最後だってのに」

本当にこれで最後なのだろうか
かごめ

「餞(はなむけ)に口付け…貰ってく」

言いながら犬夜叉はかごめの唇にそっと口付けた。
ふわりと触れた少女の前髪からいつもの優しい匂いがして少年は目を細めた。

「向こうで達者に暮らせよ…な」

例えもう二度と逢えなくても、生きていればそれだけできっと――



かごめ
お前を愛してる―――
















かごめはひどい眩暈に襲われていた。
だがそれが次第に和らいできているのか、ぐるぐると廻る意識に少しずつ現実の感覚が混じり始めた。

―――何がどうなったんだっけ…

はっきりしない頭で蜃気楼のように揺れる色彩に少女は目を凝らした。

<――愚かな>

不意に誰かの声を頭上に聞いた。 気味の悪い声。

「だ…れ…?」

耳慣れない声に反射的に危機反応が働いたのか、かごめはそこではっと目を覚ました。

「わた…し…?」

視界には誰の姿も無い――いつもの見慣れた小屋の天井と壁。
まだ鈍い痛みの残る頭を手で支えながら、かごめはゆっくりと身を起こした。
そして

「――…えっ…」

ふと手に触れた硬い感触に少女は不思議そうな顔をした。
寝かされていたらしい布団の上にはぽつんと鉄砕牙が置かれていたのだ。

「…犬…夜叉?」

辺りを見回しても持ち主の姿は無い。
どうして―――
彼が常に肌身離さず提げている愛刀が何故こんな所に所在無く置かれているのか
漠然とした胸騒ぎが少女を急かし始めた。
何が起きたのだろう―――
曖昧な記憶を辿って、直面している現実を懸命に説明付けようとするも、何も思い出せない。

「あっ!かごめが起き上がっとる!」

直後小屋の入り口から甲高い声が響いて少女はビクリと肩を震わせた。

「し、七宝ちゃん? それに皆んな…」

「かごめちゃん!よかった、意識が戻ったんだね!」

ほっとした表情の仲間達が次々と駆け寄ってきて無事を喜ぶ言葉を少女に掛ける。
取り囲まれた少女はその様子に戸惑いがちに応える一方で、ここまで心配を掛けるような何を自分はしてしまったのかと不安が増していた。

「…ね、ねえ、私どうなっちゃってたの? あっ、そうだ、犬夜叉は? これ置いて行っちゃってるんだけど…」

「て、鉄砕牙!? 犬夜叉様が鉄砕牙を持たずにどこかへ行くなど…。 これはまずい―――!」

「あっ?冥加おじいちゃん、待ってっ! 何か知って――…」

鉄砕牙を見るなり顔色を変えて出て行ってしまった冥加。
その様子に弥勒がはっとした表情を浮かべたのに気付き、かごめの不安は頂点に達した。

「かごめ様、我々も奴を探しに行って来ます。 奴はかごめ様が目覚めたら国に帰るよう伝えて欲しいと言っていました。
動けるようになったら我々の帰りを待たずあちらへ戻って静養なさるのがいいと私も思います」

「弥勒様!?ちょ…、ちょっと待って。 犬夜叉に何が起きてるの!?分からないまま帰るなんてできない、だって私の所為で…。 私が何かしちゃったからなんでしょう?」

かごめは泣きそうな顔で訴えた。
鉄砕牙を握り締める手が震えているのが分かる。

―――犬夜叉…、国へ帰れだなんて…どうして…

今にも泣き出しそうなかごめの様子を見兼ねて珊瑚がおずおずと口を開いた。

「…全部知ってる訳じゃないけど、かごめちゃん…虫妖怪の毒で仮死状態だったんだ。 それで…助ける為には毒消しの仙人って奴の薬液が必要で犬夜叉がそいつのとこ行って貰って帰ってきた。 かごめちゃんが目を覚ましたのは犬夜叉がその薬液を飲ませたからだよ。
だけどあいつ、仙人のとこから戻ってきてから何かおかしくて…あっちで何かあったのかもしれないね…」

「そういえば思い詰めた顔をしとったのう…」

「私が…毒に…?それで犬夜叉は…私の為に…」

毒を消す薬液―――頼めばすぐに分けて貰えるものなの?
分からない
もしかして何かを犠牲にして手に入れてくれたんじゃ――?

ズキズキと頭の芯が痛む。
広がっていく不安に堪らず少女は唇を噛み締めた。

「とにかく、鉄砕牙を置いて姿を消すなど只事ではない。 手分けして奴を探しましょう」

「わっ、私も行く!」

「かごめ様…、まだお身体が」

「もう平気。 着替えたら私も探しに出るわ、弥勒様達は先に行ってて」




皆が出て行った小屋の中、制服に着替えたかごめは鉄砕牙を抱えて強く祈った。

―――犬夜叉…無事でいて!

「大丈夫よね?あんたの持ち主…、私とだってずっと一緒に居ようって約束したもの…」

鉄砕牙にそう囁いて、少女は勢いよく小屋を飛び出した。










天に浮かんだ半分欠けた月。
風の音さえ無い静寂。
こんな風に暗闇を独りで走ること…これまであっただろうか

いつも傍には犬夜叉が―――

かごめは不安に駆られながら犬夜叉の姿を探していた。

「犬夜叉…何処?」

「――あっ」

周りばかりに気を取られていたかごめは足元の何かに躓いて前のめりに転倒した。
弾みで手落とした鉄砕牙がガシャリとどこかに落下する音が響いた。

「…っ、…やだ、鉄砕牙…どこっ?」

月明かりを頼りにかごめは膝を付いたまま辺りを見回すが、目に付く所に落ちた訳ではなさそうだ。

「…お、落ち着くのよ。 そう遠くに飛んだはずはないもの…」

草の影に目を凝らしながら少女は立ち上がって周囲をもう一度見渡した。
こんな大事な時に、何という失態。
見つけ出せない焦りと自分自身への情けなさで泣きそうになるのをぐっと堪えて、少女は只管鉄砕牙を探していた。
その時キンと高い音が微かに耳を掠めて少女はふと顔を上げた。
屈んだ姿勢の視線の先、彼方の草藪の中にぼうっと赤く何かが光っているのが見てとれた。
よくよく見ればその光の源に鉄砕牙らしき黒い影がある。

「えっ? な、何であんな遠くに…」

少女は驚きはしたものの、早く鉄砕牙を拾いに行かなければという思いが勝りすぐに駆け出した。
獣道すら付いていない場所――かごめは草を掻き分けながら一心にそこを目指す。
赤く光ったのは犬夜叉の何かを伝える為かもしれない
そう信じていた。




辿り着いた其処は全てを奪うような―――地獄。

「――ひっ…!」

かごめはぎょっとして引き攣ったような声を上げた。
一瞬だけ薔薇の花弁に埋もれているように見えたのは、頭が混乱したせいだろう。

鉄砕牙は確かに其処にあった。
寄り添うようにして―――紅く染まった【モノ】の側に

「…うそ…だ…よね」

少女の足はがくがくと震え出しバランスを失いかける。
大きく見開かれた瞳は一点を見つめたまま、忽ち涙で塞がれた。




探していたひとが此処に居る
けれど―――とても悲しい姿をしているの




「…た…す…けて…、たすけて、助けて、助けてっ――…」

「ぃやぁぁーーーーーーっ!!!!いぬやしゃーーーー!!!」

かごめは絶叫した。
犬夜叉は其処に倒れていた。
その胸は深く抉れ夥しい血を流して。
絶望を思わせる蒼白な顔も飛び散った血に濡れて紅い。
何処にも希望を見出せない。
犬夜叉に飛び付くように駆け寄って身体を掻き抱きながら少女はまだ叫び続けていた。

こんなことあるはずがない
だって私達はずっと一緒に、これからも

約束したでしょう?








月が翳っていく。
静かな闇の向こう、遠くに雷鳴が聞こえていた。
霞んでしまいそうな意識のなか、少女は思った。
これが終わりだというのならば出逢ったことを、自分を、憎むしかできない――
これは―――私の所為なんでしょう…?


少女の曇った瞳に紅く染まった鉄砕牙が映る。
少女はゆっくりと手を伸ばしてそれを掴んだ。

「…神…様…」


直後、倒れ行く少女の頭上に不思議な光が瞬いて消えた。
再び闇に侵食された其処には何も…誰も残っていなかった。

 

 

 




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