ーあの時、この手を放さずに腕の中に閉じ込めることができたなら
何かが変わっただろうか。
近くにいたのに、そばにいたのに、もう触れる事すらできない。
確かな言葉や約束も、そんなものはなくとも、あいつはずっと変わらずそばにいて
この先も笑いかけてくれると当たり前に信じていたなんて…
今更どんなに悔やんでも、どんなに責めても、あいつは、いない。
―あの日から、世界は色を失った。
One more time,
One more chance
第一章
ザッ
陽のあたらない、湿った土の感触を両の足に感じる。
見渡せば積み重ねた石に苔が生(む)し、村人が捨てたのか、何かの骨らしきものも散らばっている。
三日前と同じ、井戸の底の風景。
どことなくすえたにおいが鼻をつく。
それは、流れることなく留まった時を思い起こさせ、簡単に望みを打ち消し、逸らすことのできない現実へと引き戻す。
「…はぁ〜っ…見ちゃいらんねぇな」
井戸の真上から、呆れたような声が降ってきた。
「…」
その独特なにおいと憎まれ口から声の主が分かり、犬夜叉は四角い空へと顔を上げる。
「ヨッ…相変わらずシケた面してやがんなぁ、犬っころ」
…前はこの狼のにおいに胸くそが悪くなっていたのに、今は腹も立たない。
それはこいつがかごめにいちいち触ってちょっかいを出し、事ある毎に突っかかってきていたからで…
…今はもう、どうだっていい。
「…チッ」
短い舌打ちを残し、鋼牙が上から覗き込む。
「おれには、ここがかごめの住む世界とやらに繋がってたって事の方が信じらんねーけどな」
「…何か、用か?」
…信じようが信じまいが、事実だ。…そして、今、は閉じた。
―その時犬夜叉は、鋼牙の近くに珍しいにおいを嗅ぎ取り、目線をそちらに向ける。
「ああ、今日は挨拶にな…おいっ」
鋼牙に呼ばれて、ひょっこりと顔を出したその連れは、確かに見覚えがあった。
「ーあの…あの時は、いろいろと世話に…あれから生き残った妖狼族の仲間を集めて、鋼牙のいる東の洞穴(あな)と
一つにまとまったんだ。それで、今日、おれ、洞穴の頭になったから…」
誇らしげに話すその少年の頭を、グシャッと乱暴に一撫ですると、鋼牙は穏やかな声で続けた。
「…頭代理、だろ。…コイツの事、覚えてっか?コイツがどうしても礼言いたいってんでな、連れてきた」
鋼牙が『コイツ』と呼ぶその少年は、三年前はほんの子供だった。、名前は確か灰。
以前、白夜の仕組んだ罠に嵌り、灰の弟・芯太が攫われ、それにつられて出てきた魍魎丸と戦った記憶がある。
…結果的には、芯太を助けたのは、鋼牙だが。
タンッと地を蹴ると、犬夜叉はひらりと灰の側に着地し、フッと表情を緩めた。
「…鎧、似合うぜ。しっかりやんな」
それだけ言うと、赤い衣をひるがえし、森とは逆の方向へと歩き出す。
「…ヘッ…本当はてめぇが腑抜けてんじゃねーかと思ってよ、2、3発ぶん殴って
4、5発蹴り倒してやろうかと思って来たんだがな…」
鋼牙の呟きに、犬夜叉の耳がぴくりと反応する。
「…だがな、てめぇはまだ諦めちゃいねーようだし…」
そこまで言うと鋼牙は、すぅっと大きく息を吸い込むと、叫んだ。
「おれは、今の腑抜けたてめぇ、嫌いじゃねーけどなーーーっ!!」
途端に犬夜叉は風のようにすっ飛んで来て、鋼牙に爪を向ける。
「気色悪い事言うなっ」
「気色悪い風にとるなっ」
ひらりと避(よ)けてかわしながら、鋼牙は満足そうにニヤリと笑い、そのまま灰と共に走り去って行った。
「…っかやろうが…変な気ぃ回しやがって…」
溜息と共に零れ落ちた呟きは、舞い上がる土埃に掻き消された。