2.

 

「…犬のにいちゃん…」

二度目に聞こえたその声はどこか遠慮がちで、犬夜叉はやっと顔を上げる。
今更ながらに周りの存在に気付く。

「ゥオッホンッ」

わざとらしい咳払いをし、かごめの祖父が歩み寄る。

「…かれこれ…うむ、三年にもなるかのぉ…。実に…実に長い時であった。」

過ぎた日々を思い起こすように目を細めるその姿は、やはり三年前より少し老いたように見える。

「…おぬしと離れた後、かごめは悲しみに暮れて、来る日も来る日も井戸を覗いておった。
…見たところやっと井戸が通じたようじゃが、おぬしは…かごめを迎えに来たのか?
かごめを向こうに連れて行ってどうする気じゃ?」

いつになく鋭い眼光を放ち、犬夜叉に詰め寄ろうとする祖父にかごめが慌てる。

「じっじいちゃん…っ犬夜叉は会いに来てくれただけで…別に…っ」

必死で庇おうとするかごめを優しく制し、犬夜叉はかごめに目で頷いて見せた。
そのまま自分の背後にかごめを回らせると、真っ直ぐに前を見て落ち着いた声で話し出す。

「じいサン、かごめのお袋、草太…おれは、この三年間、一時もかごめを忘れた事はなかった。
そして自分の本当の気持ちを嫌というほど思い知らされた。
…今さらいきなり出て来てこんな事言うのも筋が違うと思うが…おれは…
かごめと共に生きていきたい。
これからの人生、おれに、かごめを守らせてはくれないだろうか。…頼む…っ」

頭を下げる犬夜叉に、一同絶句する。
…これが、あの犬夜叉だろうか、と。

「…なっ…たっ…」

口をぱくぱくさせて面食らう祖父を押しのけ、草太が興奮した声を出す。

「やった!プロポーズじゃんっ犬の兄ちゃん、カッコイイー!!」

尚も頭を下げ続ける犬夜叉の肩に、そっと手が置かれる。

「…犬夜叉くん、頭を上げて。…こちらこそかごめをお願いね」
「…っ!」

顔を上げると、かごめによく似た優しい笑顔があり
その後ろには、渋々というように頷くかごめの祖父と、親指を立てて屈託なく笑う草太の姿。
振り返ると、涙でぐしゃぐしゃになったかごめが、信じられないという顔で立ち尽くしてした。
犬夜叉はゆっくりとかごめの方に向き直る。

 「…かごめ、前にお前、言ってくれただろ?…半妖のおれなんかのそばにいてくれるって。
…まだ、間に合うなら……もし…許されるなら、おれと…」

「…かごめ?」

反応のないかごめに、犬夜叉が再度声をかける。
大きく見開かれたその瞳からはとめどなく涙が流れ落ち、それを拭いもせずに息をするのも忘れたかのように
かごめはただ呆然と立っていた。

「お、おいっ…大丈夫か!?かごめっっ」

普通じゃないその様子に慌てて肩を揺する。

「…あ…たがっひっ…こ…な……言うなん…びっく…てっひっく…っ…うぅ〜…」

堰を切ったように、しゃくり上げながらもやっと言葉を返すかごめを見て、犬夜叉はほっと浅く息をつく。

今までかごめに対して気持ちを誤魔化したり、煮え切らない態度を取り続けてきた犬夜叉が、本人を
前にこうも熱く本音を曝け出したのだから、かごめが驚くのも無理はない。
「…だな」と自嘲気味の独り言を呟いてから、犬夜叉はかごめを正面からじっとみつめる。



「…おれと、一緒に生きてくれ」



確認、ではないその力強い言葉と真剣な眼差しにかごめは息を飲む。









…ずっと、ずっと欲しかった言葉。
ずっと…待っていた言葉。
…でも、絶対に聞けないと諦めていた言葉、だった。

犬夜叉のその性格から、そういう類の言葉を言ってくれるとは到底思えなかった。
それはかごめが一番よくわかっていた事だ。

もし井戸が繋がり、戦国時代に行ける日が来たなら、自分はどうするだろう…
これまでにも何度も頭の中で考えてきた。

だけど、犬夜叉に会いに行けたとして、それからどうなるのだろう。

…犬夜叉の横に知らない女の人がいたら?
…会いに行って迷惑と思われたら?
 …私のことを忘れていたら?

次々と浮かぶ不安にはキリがなかった。


それでも、自分は犬夜叉に会いたい。
犬夜叉からは欲しい言葉はもらえない。
わかっているから、会えたなら強引にでも戦国時代に居座って、犬夜叉のそばに居るんだ、と
半ば押しかけ女房のような決心さえあった。

先程、犬夜叉に「待っていてくれたか」と聞かれた時も驚いたが、それよりもっと思いがけない言葉を
耳にして、かごめの思考は真っ白になってしまっていた。



「…返事、聞かせてくんねぇか。
かごめ、これからおれと、共に生きてくれ。」
 

 

「…は……」


語尾が掠れたその返事に犬夜叉の耳がピクリと動く。

「はい。犬夜叉…っ」

震える唇から、今度ははっきりと聞こえた。
応えを聞いて、犬夜叉の口から力が抜けるような吐息が漏れる。
かごめの顔にもゆっくりと表情が戻り、やがて泣き笑いへと変わっていく。
まるで花がほころぶような笑顔を、犬夜叉は眩しそうにみつめる。


きれいだ、と改めて思う。
かごめはやっぱり笑ってる顔が一番いい。

涙のあとが幾筋も残る頬に、また新しい涙が流れ、細い輪郭を伝い落ちていく。

「…もう泣くな。かごめ…」

ためらいがちに衣の袖をかごめの頬まで持っていく。
…が、涙を拭おうとした瞬間、衣の端を染める赤黒い染みに気付き咄嗟に手を引っ込める。




…気付いただろうか…




かごめは少し考えるような顔をして、ふぅーっと長い息を吐くと、いきなり手の甲でゴシゴシと
乱暴に涙を拭き始め、終いに両手のひらでパンパンと自分の頬を叩いた。


「お…いっ」

「…ごめんねっ犬夜叉。もう大丈夫だから」


そう言って顔をあげたかごめの目には、もう涙はなく、代わりに凛とした光が宿っていた。


「なんだよ姉ちゃん、何強がってんだよっもっと犬の兄ちゃんに甘えれば…っ!」

姉を思い、まくし立てる草太の肩に祖父がポンと手を乗せる。

「…まぁ、わしらの見とる前じゃからな。…早いとこ送り出してやったらどうかの」

不本意ながらの顔を前面に押し出しつつも、かごめの幸せを思うその言葉に草太もおとなしく引く。
そんな二人を優しくみつめていたかごめの母が、今度はかごめに一際優しい笑みを送る。

「体に気をつけてね、かごめ」

その口調はいつもと変わらない。

「…うん…ママも……」

伝えたい事がたくさんあった。
だが言葉にしようとすると、いろんなものが込上げてきて溢れそうで、後が続かない。
そんなかごめに母は一度ニッといたずらっぽく笑うと、神妙な面持ちの犬夜叉に向かって
弾んだ声を出す。

「犬夜叉くんっかごめはきっといいお母さんになれると思うわ。
私たち、二人の子供が出来る事を楽しみにしてるわね」




一同ポカンと口を開ける。

しばらく経ってから我に返ったかごめが真っ赤な顔で反論する。

「…なななななに言ってるのママッ!!ふふ二人って…っこここ子供って…っっ!?」
「…お、おれと…かごめの…?」

耳まで赤くしてあわてふためく当人達を尻目に、三人はほのぼのと語り合う。

「…まぁそーじゃな、かごめの子ならさぞ可愛かろう」
「そっか、姉ちゃん嫁に行くんだもんな」
「ね、ふふふ」

一瞬にして重い空気を変えてしまったかごめの母を、犬夜叉はあっけにとられて見つめる。


思えば、かごめやかごめの家族は、妖怪だとか人間だとか…今まで犬夜叉が悩んできた
そういう垣根を簡単に取っ払い、当たり前のように普通に接してくれていた。

…今も、幸せになる事を無条件で赦してくれているようで、その有り得ない程の柔軟さに
何度頭を下げても足りない気持ちになる。


気がつくと皆が穏やかな顔になっていた。
こんな柔らかな空気は一体どれくらいぶりだろう…とこの場にいる誰もが感じていた。

 

「…さぁ」

行ってらっしゃいと、母がかごめの肩をポンと叩く。
まるですぐ近くへ送り出すかのような仕草に、かごめの胸が少しだけキュッと締まる。
奥歯をぐっと噛み締めて、かごめは皆に向かって大きく頭を下げた。

「行ってきますっ」


勢い良く顔を上げたかごめは、今自分ができる最高の笑顔を家族へと向ける。
そして前へ向き直ると井戸の縁に足をかけ、思いきり飛び込んだ。
後に続こうとした犬夜叉は、井戸の手前でもう一度三人を振り返る。

視線が交わると、一つ力強く頷いて、ひらりと衣を翻して井戸の中へと消えていった。

 


「…行ってしまったのぉ…」
「でも、あんな姉ちゃんの顔、三年ぶりだね」
「…ええ…」

 
いつまでも名残を惜しむかのように井戸をみつめる三人の頬を、温かな風がふわりと撫でていく。
ふと、甘い匂いを感じ目で辿ると、開いた祠の入り口から、風と共に運ばれてきた薄紅色の花弁が数枚
くるくると舞い踊りながら、井戸の中へと消えて行った。

 
 

 


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